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『TOCHKA』と二つの固有名詞(松村浩行)

『TOCHKA』の登場人物たちは皆、固有の名前を持たず、互いが互いを名前で呼ぶこともない。けれども、この映画には固有名詞が二つだけ登場する。

一つは、 北海道 の根室 という地名。現 ロシア 領である 北方四島 を除けば、日本東端の町だ。
母親が 国後島 の生まれで、 ソ連 侵攻後、四島からの引揚者が多く移住した 根室 には、子供の頃、母方の親戚を訪ねて夏休みに遊びに来た。霧(ガス)が濃く、夏なのに日がな一日ストーブには火がついたままで、同じ 北海道 なのに住んでいる 札幌 とまるで違うのに驚いた。
ロケハン のため再び 根室 を訪れたのは、それから二十年以上も経ったやはり夏で、霧も寒さも記憶のままだったが、今度は通りを歩く ロシア 人の姿に驚いた。 二十年前、あくまで ソ連 は海の向こうの、姿の見えない存在であったから。

このように 根室 という場所との繋がりは古くから(つまりは母や祖父・祖母の代から)あったのだが、しかしこの映画が立ち上がる直接の端緒はそこにはなく、それはもっと大きくなってからの別の繋がり、もう一つの固有名詞との出会いのうちにある。話が私事に及んでしまうが、そのことを書いておきたい。

この映画を最後まで見るとお分かりになると思うが、クレジット・タイトルの後に、献辞が出てくる。そこにある石井直志という名前は、僕が大学時代に少しだけ関わりのあった先生の名で、もう十年以上前に亡くなられている。

少しだけ、というのには含みがあるが、まず僕があまり出席の良くない学生だったこと、加えて、(今以上に)付き合いの悪い人間だったという事情による。
石井先生は入学時のクラス担任で、一年間 フランス語 を習ったのだが、上記のような理由から踏み込んだ付き合いがあった訳でもなく、たまに教場で顔を合わせる程度の関係だった。
学年末に試験があって、確か辞書を引きながらルモンドか何かの新聞を訳すという試験だったが、後から同級生づてに、石井先生がお前の答案を凄く褒めてたよと聞いた。僕はまるで試験に手応えがなかったので、へえ、というか、何かの間違いじゃないか、と思った。

こんな調子でどうにか二年生になることが出来たが、学校から遠くに引っ越したこともあって、いよいよ授業に出る回数も減り、たまに登校しても授業をサボって 図書館 で本を読んだり、空いた教室を見つけては取り留めもない考えごとをしたり居眠りしたりして、誰とも話さずそそくさと帰ってしまう、という感じだった。

ある日のこと、僕は小さな空き教室で小説を読んでいた。と、突然、「松村!」という怒ったような大きな声がして顔を上げると、通りすがりらしく小脇に書物を抱えた石井先生が廊下に立っていた。
僕はドアを閉め忘れたことを悔やんだ。人と話すのが面倒くさかった。
先生は教室に入って来ると、さっきの「松村!」とは打って変わった穏やかな口調で、しかしじっとこちらを見据えるようないつもの目つきで、「君はいつも独りでこうしているんですか」と聞いた。それから僕が読んでいた本のことや試験の答案の出来に驚いたこと、僕の進んだ専修について話し始めた。

君は良い選択をしましたね、と先生はいった。僕は演劇や映画を研究するコースに進んでいたのだが、しかしそこでも馴染めないままだった。取り分け、映画を研究の対象とすることには深い嫌悪を覚えていて(それならばそんな専攻に行かなければいいだけの話なのだが!)、そのような場で交わされる言葉のやりとりや雰囲気にはどうしても馴染めないものを感じていたので、そうした実感を率直に先生に話した。
先生は僕の生意気な所感を聞くと、映画は見る本数じゃないですよ、映画狂には見た数を競ったりする人もいますが、要は一本一本と自分がどれだけ深い関係を持てるかです、といった。 わずか数分の会話だけで、先生は教室を出て行き、僕はホッとして読書に戻った。思えば先生と二人きりで話すのはそれが最初であった。そして、その時は知る由もないのだが、それが最後でもあったのだ。

三年生になり、僕はいよいよ学校に行かなくなっていった。TVも電話もない部屋で本を読んだり音楽を聞いたりするかなり現実離れした日々を送っていた。
確か三年の終わりだったと思う。忘れた頃に学校に行くと、一年生の時同じクラスだった友だちに捕まり、やたらに珍重された。
久しぶりだなあ、とかれはいい、何やってたの? みんな松村のことを「冬の蝉」だっていってるよ。滅多にいないから!
適当に話に応じながら、僕は何気なく、石井先生どうしてるかな、と聞いた。するとかれは驚愕の色をありありと浮かべ、しばらく絶句した後、知らないの!? といった。
石井先生はその二、三ヶ月前に亡くなっていた。授業中に教室で倒れて病院に運ばれ、そのまま回復することなく息を引き取ったのらしい。お葬式に参列した級友もいたとのことだった。
先生が 肝臓 を患っていたことは授業中の話から断片的に知っていた。大きな手術を受け、生死をさまよい、療養後職場復帰を果たしてからも、毎日たくさんの薬を服用しているとも。しかしまさかこれほど突然亡くなってしまうとは思わず、僕は不意を衝かれたのだが、前述したように僕は先生と数少ない接点しか持たなかったので、そうだったか、それは知らなかったな、という程度の受け止め方でその時は終わった。

それから数年が過ぎた。その頃、僕はもう 映画美学校 に入って映画づくりを始めていた。
ある日書店で、ポール・ ヴィリリオ という人が書いた『戦争と映画』という本を見つけて、何気なく手に取った。驚いたことに、表紙に石井先生の名前があった。
もともとその本は八十年代に刊行されたものだが、先生の死後、 平凡社ライブラリー の一巻として再刊されたのだった。再刊に際して書かれた訳者あとがきのなかで共訳者の千葉文夫氏が触れているように、石井先生は ヴィリリオ の仕事に早くから関心を持っていたのらしい。勿論、そんなことも知らなかった。
写真から映画に至る映像技術の発展と、更なる大量殺戮へと洗練を極める軍事技術の進化をパラレルに捉え、両者が足並みを揃えて圧倒的なスペクタクルへと拡大してゆく過程を記述したその本の最後に、石井先生が初刊時に書いた訳者あとがきが付されている。思えば僕が先生の書いた文章を読むのはこれが初めてだった。先生は ヴィリリオ が最初に出版したのが『トーチカの 考古学 』という著作だったことを記した後で、こう続ける。

《しかし、なぜ「トーチカ」が最初の著作のテーマに選ばれたのだろうか。おそらくそれは ヴィリリオ が「トーチカ」の 建築 構造にある種の魅惑を感じていたからにちがいない。小要塞の内部をつつむ薄闇のなかにはただひとつ開口部が設けられており、周辺の光景はちょうど暗箱に収められたレンズに映じるイメージのように見つめられている。従って、「トーチカ」は 写真機 や映画撮影機に類似した構造を持つ 建築 空間であり、眼の機能そのものを内包しているとさえいえるだろう。一九八〇年刊行の『消失の 美学 』では写真家J・H・ラルティーグがまだ 写真機 を手にしていなかった少年の時代を回想して語った言葉をひきながら、 ヴィリリオ は少年ラルティーグが自分の身体を 写真機 に、眼をレンズに同化させることで得ることのできた快楽的な時間に言及している。意識を喪失し、身体感覚を消し去ってはじめて、眼差しは美しいイメージと邂逅し、特権的瞬間を享受しうるのだというこうした「消失の 美学 」こそまさに、 ヴィリリオ を絵画の体験へ、あるいは映画という深い眠りの世界へ誘い入れてやまないなにかであるだろう。》

僕はこの部分を何度か読み返しながら、 ヴィリリオ ばかりでなく、石井先生もまた、「「トーチカ」の 建築 構造にある種の魅惑を感じてい」るのではないかと思うようになった。そして、少年ラルティーグの回想を介して「消失の 美学 」を夢想しているのもまた、先生自身なのであろうと。
やがてそのような僕自身の想像は、いつしかトーチカの薄暗がりに坐り、開口部から外を見つめ、沈黙のうちに「消失の 美学 」を実践している石井先生という奇妙なイメージへと成り変わっていった。それから、長い時間のなかで、次第に先生の顔がぼんやりと霞んでゆき、それは名前を持たない、ただの一人の「男」のイメージに結晶した。

トーチカの薄闇に身を置いて四角い小窓から外の世界を凝視する男というイメージに、いったいどのような物語が潜んでいるのか。そしてその時かれが見ている世界のイメージとは果たしてどういうものなのだろうか。どうしてもそれを知りたくて、何度も プロット らしきものをスケッチしては捨てた。当初はものすごくシンプルな、ほとんどべケットの 戯曲 のような構造だったのを思い出す。しかしそれはだんだんと、歴史と個人が担う記憶の重みで撓み、やや悲愴な調子を帯びることになる。同時に、そのイメージは甘美な「消失の 美学 」からズレ、遠ざかり、物理的な「消失」、つまり死の色彩に濃く染まってゆく。いや、むしろ死はもともと「消失の 美学 」に含まれているもの、その当然の帰結というべきなのかも知れない。

そしてそのようなイメージの変化の背景には、先生がすでにこの世にいないという事実がやはりあったように思えるのだ。確かに先生と僕の関係は師弟関係などといえたものではなく、じつに限られた、浅いものだったが、むしろそうであったからこそ、先生の死後、先生の書いた短い文章をただ一つのとば口として、閉ざされたトーチカの薄闇を夢想し、そこから開口部に向ける眼差しを先生のそれと重ね合わせることで、僕はある種の埋め合わせをしたかったのではないか。無論、それはもはや現実的には叶えられることのない望みで、そのために仄暗い後悔の念にもつきまとわれることになるのだが。
個人的な記憶というモチーフと、何かが決定的に手遅れだという、やや病的なほど切迫した感触は、このあたりによるのかも知れないと思っている。

もう一つの固有名詞である 根室 の話に戻りたい。
トーチカを題材に映画を撮りたいと思い立ち、調べて行くうちに日本にもトーチカがあることを知った。寡聞にして、それまで知らなかったのだ。
しかも僕が子供の頃釣りをした 根室 の海岸にある。実際に行ってみて、もう他の場所を見ようとは思わなかった。映画のロケ場所としてどうか以前に、個人的な繋がりがあること、何よりそれが大切で、すべてにさえ思えたから。

この映画は、 根室 と石井先生という、僕と繋がりのある二つの固有名詞がかろうじて交わる一点に立ち上がった。 根室 についてはたっぷり画面に映っているし、映画の内部でその名前も呟かれるので、分かりやすいかと思うが、石井先生の名はあくまで映画の外側で遠慮がちに留まったままである。それに今まで誰かにこの話を詳しく話したこともなかったので(しかしなぜだろう?)、この機会に書かせていただいた。

最後に来てやや唐突な話だが、登場人物の名前の問題や師弟関係、 自死 というモチーフに深く関係する小説の存在が、自分で意識している以上に大きかったのだと、今驚いている。
「記憶して下さい。私はこんな風にして生きて来たのです」という『こころ』のなかの高名な一節は、思えばいつも僕の耳元で執拗に、生々しく繰り返されていた。


この文章はプロジェクトINAZUMA BLOGに掲載されたもの(http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080714)に一部訂正を加えたものです。

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